第1章 カスリーン台風の概要を知る

1 どのような気象状況だったの?

南太平洋上でカスリーン台風発生!

1947年(昭和22年)9月8日未明、マリアナ諸島東方で発生した弱い熱帯低気圧が徐々に勢力を増しながら北上。12日朝には硫黄島西方500kmの海上に達し、進路を北に向けました。このときの中心気圧は960mb(960hpa)、中心付近の最大風速は秒速45m、暴風半径は200kmと推定され、非常に強い台風になりました。
台風は9月14日未明には鳥島の南西 400 km の海上まで北上。15日20時頃には房総半島の南端をかすめますが、この頃になると勢力が弱まり、中心付近の最大風速は20m程度になり、16日には三陸沖に去っていきました。

台風の名前はアルファベット順で外国女性名を命名

当時、日本はアメリカ軍を主とする連合国軍の占領下にあったため、日本列島を襲う台風の名前は連合国軍が決めていました。名前は、台風が発生する度、アルファベットのA、B、C順に女性の名前を冠しました。日本ではキティ台風(昭和24年)、ジェーン台風(昭和25年)などが有名です。カスリーン台風の英名は「KATHLEEN」。KなのでAから数えて11番目ですが、なかには日本が台風と見なさなかったものがあったため、実際は9番目だったと言われています。

台風の影響で停滞していた秋雨前線が活発化!

台風そのものは本州に近づいた時、既に勢力を弱めつつあり、進路も関東地方の太平洋岸をかすめただけだったので、強風による被害はあまり出ませんでした。しかし、台風の接近に先立って、日本列島付近には秋雨前線が停滞しており、そこに台風の湿った空気が入り込んだため前線が活発化。これにより豪雨がもたらされたと考えられています。

  • カスリーン台風進路図
    出典:「報道写真集 カスリーン台風」(1997年)
    埼玉新聞社出版局

2 どのくらいの雨が降ったの?

カスリーン台風は典型的な“雨台風”

この台風の特徴は、あらかじめ秋雨前線によって雨が降っていたところに台風による雨が加わり、利根川流域及び荒川流域の広い範囲にわたって大量の降雨をもたらした点です。カスリーン台風は風速が弱く、雨量が異常に多いという、典型的な「雨台風」だったのです。

2日足らずで年間降水量の4分の1!

9月13日、台風の接近に伴い、荒川流域の各地では激しい雨が降り始めました。この雨は房総半島をかすめていった15日夜半まで降り続きました。荒川流域の秩父観測所においては13日11時20分~15日20時40分に611mmという降雨量を記録。これは年間降水量の4分の1がわずか1日半で降ったことになります。
利根川流域も豪雨となり、3日間の降雨量は、利根川(湯原)、渡良瀬川(足尾)で380mmといずれも300mm以上を記録しました。特に、鳥川(三ノ倉)、鬼怒川(黒部)では400mm以上を記録しました。

  • 9月13日から3日間の雨量分布図
    出典:「報道写真集 カスリーン台風」(1997年)埼玉新聞社出版局

3 どれくらい水位が上がったの?

あっという間に水位が上昇して堤防が決壊

カスリーン台風が南太平洋で発生した9月8日頃、日本列島は秋雨前線が停滞していたため、2~3日間、雨が降り続いていました。そこへ北上したカスリーン台風による豪雨により、各河川ともに急速に水位が上がりました。
利根川本川では、全川にわたって計画高水位を上回り、小山水位観測所(107km)より上流では既往最高水位を記録。利根川の決壊口に近い栗橋地点の水位は16日0時20分には最高9.17mに達しました。埼玉県東村(現・加須市)の新川通地先付近では河川水位が堤防より0.5m高くなり、延長350mにわたって堤防が決壊しました。
また、江戸川では東金野井より上流で計画高水位を上回り、渡良瀬川でも全川で計画高水位を超え、その他の支川についても部分的に計画高水位を上回りました。
荒川流域においては、現在の鴻巣市で堤防が約65mに渡り決壊したのに続き、熊谷市久下地先でも約100mにわたり堤防が決壊しました。荒川から溢れ出た濁流は中小河川を次々と堤防決壊に追いやりながら元荒川沿いに南下し、17日には利根川の堤防決壊による濁流と合流して、ついに東京都と埼玉県の境に位置する大場川の桜提をも破り、葛飾区、江戸川区に浸水範囲を広げていきました。最初の堤防決壊から5日目を数える20日午後には、多くの市区町村を飲み込んだ濁流は東京湾にまで達しました。